プロレスのリングに舞う。「けじめをつける男」船木誠勝が最後の勝負を始めた|リアルホットスポーツ

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2015年9月18日
プロレスのリングに舞う。「けじめをつける男」船木誠勝が最後の勝負を始めた

船木誠勝は今、自ら歩んだ道が正しかったことを確かめるように、プロレスのリングに舞っている。

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けじめの繰り返しだったプロレス人生

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船木誠勝のプロレス人生は、けじめの繰り返しだ。まっすぐな性格ゆえに、なんとなく流れてゆくということができない。次のステップを踏む際に、いちいちけじめをつける姿が際立つ。それが船木という男の魅力でもある。
新日本プロレスから第2次UWF、プロフェッショナルレスリング藤原組、パンクラス。ヒクソン・グレイシーに破れ、7年間の引退期間を経て総合格闘技で復帰、そしてプロレス復帰。都度、それまで築き上げてきたものにけじめをつけるように別れを告げ、新天地を探し続けた。そして今年、またしても船木はけじめをつけた。今度は、どこへ向かうのか。

約2年に渡り在籍したWRESTLE-1(以下W-1)を、6月末をもって退団しフリーになった船木。プロレス復帰後に所属した全日本プロレス時代から数えれば、6年間に渡る団体所属だったが、条件面での折り合いがつかなかったこと、46歳という年齢で、50歳を前に勝負をかけたい気持ちが募ったことが、退団の理由だという。

「やっぱりまだ戦っていない選手とかたくさんいますので。あと何年出来るか本当にわからないので。その対戦カードが残っていれば、それを全部終えてから終わりたいな、という気持ちがありますので、今回こういった形になりました」
武藤敬司同席のもと、6月19日に開かれた会見で、船木は淡々と決意のほどを語った。何気なく聞こえたが、そこにはプロレスラー人生を閉じる段階に入ったという表明があった。

その言葉通り、8月には垣原賢人応援大会で、かつての盟友・鈴木みのるとタッグを組み、9月18日には初代タイガープロデュースのカードとして、リアルジャパンプロレスでスーパータイガーと対決。その後も藤波辰爾の記念大会や、アレクサンダー大塚20周年記念大会に出場と、フリーで闘いの場を広げている。

千葉・富津で目撃した船木のけじめ

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前述の退団会見の翌日、W-1最後の試合となった千葉県富津市での大会(大和ヒロシ自主興行)を観戦した。同県君津市の出身である大和が、町興しを兼ねて開いた大会。富津市総合社会体育館は、緑が広がるのどかな風景の中にぽつんと建っている。会場前は、試合開始数時間前から地元の物産展が開かれ盛況だ。富津はじめ県内の店が出店し、地産の食べ物やら菓子やらを売っている。これからプロレスが行われるとは思えない、静かな時間が流れている。ここで船木は、けじめをつけるのか。

夕暮れとともに、物産展に集まっていた人々が体育館に吸い込まれる。試合は粛々と進み、船木は第7試合、この日のメインイベントに登場した。UWF時代を思わせる黄色いショートタイツとレガース姿の船木は、大和、黒潮”イケメン”二郎と組み、AKIRA、征矢学、熊ゴローと6人タッグマッチを戦った。26分32秒、混戦のなか、大和が熊ゴローをジャーマンスープレックスホールドに葬った。リング上で花束をもらった船木は、深々と頭を下げ、歓声に応えながらリングを後にした。試合内容に関しては事細かに書く必要はないほど、盤石かつ貫禄十分な仕事ぶりだった。

15歳の少年がつけた、人生のけじめ

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子供時代にブルース・リーにあこがれ、やがて初代タイガーマスクの活躍を見てプロレスラーになることを自分で決めた。地元、青森県弘前市の中学を卒業後、高校入学の前日に一度は不合格だった新日本プロレスに入団した。両親の離婚で母親について行った船木は、高校進学を勧める母親を「人生が2回あるなら1回は高校に行きます。でも人生は1回しかないんです。プロレスをやらしてください。その代わり、今度お母さんの子供として生まれ変わったら、高校に行きます」と説得したという。

しかしその後の船木のプロレス人生は、まっすぐな性格とは裏腹に紆余曲折の道をたどった。プロレス界が安定している時代であれば、そのままメインイベンターに成長し、新日本を背負うエースの一角を担っていたはずだ。だが、船木が入団した1984年前後は、日本マット再編と言っていい戦国乱世。あこがれの初代タイガーはもうおらず、新日プロの主力選手は第1次UWFやジャパンプロレスなどへ分散。それも単純な団体分裂ではなく、従来のプロレスを事実上ショー扱いし、真剣勝負を標榜したUWFの登場によりイデオロギーの分裂が起きたのだ。前代未聞といえる大量離脱で新たなエース候補を探していた新日プロにとって、ルックスもよくセンスにあふれた船木への期待は大きなものだった。しかしやがて船木もそんな複雑な時代の流れに飲み込まれ、1989年、ヨーロッパ遠征中に第2次UWFに移籍する。やがてそのUWFがある意味、誘発したともいえる格闘技ブームが起き、船木はあくまでプロレスの範疇にとどまっていたUWFに飽きたらず、より真剣勝負への傾斜を深めてゆく。

その後、UWF分裂と藤原組を経て、理想の団体パンクラスを創設するなど、真剣勝負への渇望は半端ではなかった。その頂点が、2000年に行ったヒクソン・グレイシー戦だ。「負けは死を意味する」…次はもうない、として戦ったヒクソン戦。かつてないほどヒクソンを追い詰めたものの敗れ去り、言葉通りに潔く引退をした。船木は一度、死んだのだ。

「死」を経て確かめる…歩んだ道は正しかったのか

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リングから姿を消した船木は、俳優業にチャレンジしたり、建設現場で働いたり、格闘技番組のコメンテーターを務めたりと、瞑想ならぬ迷走を続けた。やがて船木は思う。まだ体が動くのに、リングに上がらないのは違うんじゃないか。
2007年の大みそか、総合格闘技のリングで復活した。しかし7年のブランクは大きく、桜庭和志に敗北。翌年は田村潔司に負け、かつての弟子ミノワマンに勝利を収めたところで、格闘技には一区切り。2009年に、プロレスに復帰した。その際にも母親のもとを訪れ、またプロレスをやることにしたとけじめをつけた。

プロレス復帰後の船木は、どこか達観したような、淡々としたファイトを見せる。しかし、現在のマット界で、これほど人生を感じさせるレスラーも珍しい。15歳で新日本プロレスに入団した当初は、これといって格闘技経験のない少年だったが、一度の「死」を含めた約40年間の紆余曲折で、誰もが認める実力者に変貌を遂げた。船木は今、自ら歩んだ道が正しかったことを確かめるように、プロレスのリングに舞っている。

著者:志和浩司

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芸能エンタテインメントはじめ多岐に渡るジャンルで取材および編集経験豊富です。ペン、カメラの両方またはそれぞれで担当可能。レギュラーでコメンテーターとしてラジオ出演、CS番組出演経験あり。ご希望に応じて柔軟な対応をさせていただきます。