※写真はイメージです。
2020年、東京オリンピックのエンブレム発表
この原稿を書いているのは2015年7月24日。2020年7月24日に開催される東京オリンピックまで、ちょうどあと5年となった日だ。
この日、公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会は、東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会のエンブレムを発表した。
エンブレムは、2014年10月に国内外から104作品(内、海外から4作品)の応募があり、デザイナー・永井一正氏を審査委員代表とする審査委員会が、「デザインとしての美しさ、新しさ、そして強さ。そこから生まれる展開力」を審査基準とし、入選3 作品を選出。うち1点を候補として選定。 IOC、IPC、東京2020組織委員会の承認を経て、国際商標確認を終了し、正式に決まった。
選ばれたのはアートディレクター・佐野研二郎氏の作品。
佐野研二郎氏は1972年、東京の生まれ。博報堂を経て、2008年にMR_DESIGNを設立。サントリー「南アルプスの天然水」「グリーンダカラちゃん」などの広告、日光江戸村「ニャンまげ」などのキャラクターデザイン、映画や広告のアートディレクション、プロダクトデザイン、絵本の出版など、さまざまなフィールドで活躍するデザイナーだ。
http://www.mr-design.jp/
公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会のサイトには、
世界は、2020年に東京でとのメッセージとともに、このエンブレムが掲げられている。
ひとつのTEAM になる歓びを体験する。
すべての人がお互いを認め合うことで
ひとつになれることの
その大きな意味を知ることになる。
その和の力の象徴として、このエンブレムは生まれました。
すべての色が集まることで生まれる黒は、ダイバーシティを。
すべてを包む大きな円は、ひとつになったインクルーシブな世界を。
そしてその原動力となるひとりひとりの赤いハートの鼓動。
オリンピックとパラリンピックのエンブレムは、
同じ理念で構成されています。
オリンピックエンブレムは、
TOKYO、TEAM、TOMORROW の T をイメージし、
パラリンピックエンブレムは、
普遍的な平等の記号 = をイメージしたデザインとなっています。
2020 年はもうそこに来ています。
このエンブレムのもとに
ひとつになって
すばらしいオリンピック・パラリンピックを
つくりましょう。出典:https://tokyo2020.jp/jp/emblem/
さらに、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会のサイトには、審査委員代表である永井一正氏のコメントも掲載されている。
1964年の東京オリンピックの亀倉雄策さんのエンブレムを今も懐かしむ人は多い。大きな太陽を表す「赤丸」と「五輪マーク」と「文字」だけの極めてシンプルでありながらその造形性とインパクトや意味性において抜群のシンボルで、国内はもとより海外でも絶賛されました。この度決定した佐野研二郎さんの2020年の東京オリンピック・パラリンピックのエンブレムも同じように、その累積効果によって国内外に好感をもって広がることを願うとともに、より良くこのエンブレムを育てていくのは皆様の力なのだと思います。前回がそうであったように、これを契機として日本のデザインが未来に向かって更に飛躍していくことを期待しています。出典:https://tokyo2020.jp/jp/news/index.php?mode=page&id=1406
僕はこのコメントを読んで『あれっ?』と思った。
かすかな違和感を感じた。
なぜなら、佐野研二郎氏の作品より先に、亀倉雄策氏のことを語っているからだ。
1964年、スタートダッシュを描いた第2号ポスター
文庫『TOKYOオリンピック物語』(野地秩嘉/20134年10月13日/小学館)は、1964年に開催された東京オリンピックを支えた人々をドラマチックに描いた一冊だ。ちなみに、著者・野地秩嘉氏はこの『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞している。
『TOKYOオリンピック物語』の第1章は「赤い太陽のポスター」。
物語は1962年3月31日、神宮外苑にある国立競技場で行われた、東京オリンピックの公式ポスター第2号の撮影風景から始まる。
東京オリンピックの公式ポスターは4種あるが、僕はこのポスターのデザインが一番、好きだ。
6人の陸上選手の短距離走のスタートダッシュの光景にダイナミズムを感じる。
バックが黒なのは夜間にストロボをたいて撮影されたためらしい。
モデルには日本人選手3名と、立川基地に所属する陸上競技の経験のある3名の兵士が起用された。
6名のモデルたちは競技そのままにスタート地点に並び、スターターのピストルの合図とともに走り出す。
カメラマンは早崎治氏。30回もテイクを重ね、100枚ほど撮影した。
この、短距離走のスタートダッシュというアイディアを指示し、ポスターをデザインしたのが、グラフィックデザイナーの亀倉雄策氏だ。
撮影された翌日、現像されたフイルムから亀倉雄策氏は1枚のフイルムを選んだ。
「簡単だった。あの一枚しかない。すっと一枚を選んだ」(談・亀倉雄策『TOKYOオリンピック物語』)
このポスターは海外でも絶賛された。亀倉雄策氏はワルシャワ国際ポスタービエンナーレで芸術特別賞を受賞している。日本のデザイナーが世界に躍り出るきっかけともなった作品だった。
永井一正氏は「戦前から現在までを含めて日本のグラフィックデザイン史上、最高の傑作」(談・永井一正『TOKYOオリンピック物語』)と評する。
亀倉雄策氏は東京オリンピックのシンボルマークとポスター4種をデザインしている。
※『オリンピック東京大会ポスター集』より
東京オリンピックのシンボルマークを任された1960年当時、1915年生まれの亀倉雄策氏は45歳。
2020年の東京オリンピックのエンブレムをデザインした佐野研二郎氏は現在、43歳。 わずか2歳の違い。
亀倉雄策氏の後輩にあたる永井一正氏はとうぜん、佐野研二郎氏の年齢は知っていたはずだ。だから1960年に45歳だった亀倉雄策氏と2015年に43歳の佐野研二郎氏の姿をだぶらせて見ていた、のかもしれない。
1964年、東京オリンピックのシンボルマーク
亀倉雄策氏が1964年の東京オリンピックのシンボルマークをデザインした。白地に赤い太陽と黄金の五輪のマークを組み合わせたシンプルなデザインだ。
公式ポスターの第2号はスタートダッシュだが、第1号はこの、シンボルマークをそのまま引き延ばしてポスターとされた。
それまでオリンピックには五輪のマークはあったが、大会ごとのシンボルマークはなかったのだという。「東京オリンピックのシンボルとなるマーク」それを提案したのが亀倉雄策氏だった。
この東京オリンピックのマークも全世界に絶賛された。
東京オリンピック以降の大会やワールドカップ、国際的イベントでも大会独自のマークやシンボルマークが作られるようになった。
つまり、東京オリンピックのシンボルマークは世界と歴史を動かした画期的なものだったのだ。
オリンピック組織委員会はデザイン懇話会を発足。メンバーはデザインの専門家など10名。
シンボルマークを作ることと、シンボルマークの採用にはコンペをすることを決定した。 シンボルマークを作ることを提案したのは亀倉雄策氏だったが、シンボルマークはコンペで選ばれることとなった。
コンペは一般公募方式ではない。河野鷹思氏、亀倉雄策氏、杉浦康平氏、田中一光氏、永井一生氏、稲垣行一郎氏という、いずれも日本を代表するグラフィックデザイナー6名を選び、各自からプランを提出してもらう方法をとった。
本来であればシンボルマークを作ることを提案した亀倉雄策氏は審査する側に回ってもおかしくはない。しかし、亀倉雄策氏は審査する側ではなく、デザイナーとして応募する側に回りたかったのだという。
シンボルマークが決定されたのは1960年6月10日。
亀倉雄策氏はコンペの提出期限を忘れていて、事務局の催促で思いだし、短時間でデザインした。
シンボルマークを作ることを提案した亀倉雄策氏の作品が選ばれる。
見方によっては出来レースとも思われなくないが、審査員全員が亀倉雄策氏の作品を支持した。ライバルのはずの永井一郎氏も絶賛した。
東京オリンピックのシンボルマークは亀倉雄策氏のデザインしたものしかありえない、そういっていい。
その思いが永井一正氏の「1964年の東京オリンピックの亀倉雄策さんのエンブレムを今も懐かしむ人は多い」というコメントにつながったとも思える。
永井一正氏のコメントにある「前回がそうであったように、これを契機として日本のデザインが未来に向かって更に飛躍していくことを期待しています」というのは、亀倉雄策氏が東京オリンピックのマークで世界と歴史を動かしたのと同じ使命を、佐野研二郎氏がデザインしたエンブレムに期待している、ということと捉えられる。
佐野研二郎氏がデザインしたエンブレムは、世界と歴史を変えられるのだろうか?