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その馬は倒れた後藤騎手を見つめ続けた
「馬は死から逃げながら、同時に死に向かっている。競馬に美しさがあるとしたら、僕はその一点だと思いますね」場立ちの予想屋 吉富隆安
後藤浩輝騎手は繰り返しこう語っていた。
「騎手は罪深い職業だ」
「一頭、一頭の馬に、過度の愛情、思い入れを持たないよう心がけている」
そんな彼にこう言わしめた馬がいた。
<本当に大好きな馬になりました>
<奥多摩Sでコンビを復活した時はみんなが笑顔になり勝ち負けは関係なく幸せな気分に包まれました>(後藤浩輝フェイスブック)
その馬の名は、シゲルスダチ。ひと言でいえば、まったく勝てなくなった馬である。
2012年4月1日に後藤騎手を背にマーガレットステークスを制して以来、死までの2年7カ月。25戦して一度も勝てなかった。
普通、こういう馬は「労働者」などと呼ばれるが、シゲルスダチは違う。
「スダチは後藤を待っている。後藤が帰ってくるまで走り続けるんだよ」
「岸壁の母か?」と言って笑ったこともあったが、ファンは真顔でそう言っていたし、そう信じれば、確かに幸せな気分になる。
2012年5月6日。東京競馬場で行われたNHKマイルカップは、シゲルスダチにとって最初で最後の大舞台となった。前走のマーガレットステークスが7番人気1着。このレースでも18頭立ての16番人気と「まったく期待されていない」ことに変わりはないが。
スタートして後藤騎手は馬を下げた。前走同様、最後の直線での爆発力に賭ける作戦である。
コースの一番内につけ、後藤騎手は馬を落ちつかそうとするが、シゲルスダチは首を横に振って折り合わない。「いやいや」をしている格好だ。
3コーナーを回り、後藤騎手は馬群の真ん中を切り裂こうと馬にゴーサインを出した。ゴチャついた中、外側にいたのが岩田康誠騎手のマウントシャスタだった。
内に切れ込んできたマウントシャスタがシゲルスダチのコースをふさぐ。暴れ馬と化したマウントシャスタの上で岩田騎手がバランスを崩し、後藤騎手に体当たりをくらわす格好となった。
シゲルスダチは横転し惰性で芝の上を滑り、後藤騎手は投げ出された。
普通なら起き上った馬は騎手に見向きもせずに走り去る。馬の群れに戻ろうとする。人間の支配から自由になったのだから。そもそも、競馬はそうした馬の習性がなければ成り立たない。
シゲルスダチは違った。
うずくまる後藤騎手のもとに戻ってきたシゲルスダチは、後藤騎手の方を見つめ、そこを動かなかったのである。
スダチは後藤を待っている
後藤騎手が再びシゲルスダチの背にまたがったのは、2013年11月16日の奥多摩ステークス。「幸せな気分」に包まれるまで1年半もかかっている。それほどの大事故だったのである。復帰した後藤騎手とシゲルスダチは2戦して6着、4着。
2014年4月27日に後藤騎手が再び落馬。
「スダチは後藤を待っている」
そんなファンの思いを「過剰なロマンティシズム」と笑い飛ばすことができるだろうか。
シゲルスダチの死を後藤浩輝騎手は東京競馬場の放送席から見ていた。
解説者として競馬中継に登場したとき、こんなテロップが流れたこともあった。
<後藤浩輝騎手 “不死身の男”復帰まであとわずか> 2014年11月9日。奥多摩ステークス。
<彼の走りを目で追いながら応援していましたが、ゴール前彼の脚から「バキッ」という音が聞こえそうなぐらいバランスを崩してスピードダウン。僕は一瞬でただごとではない故障だということはわかりました>(後藤浩輝フェイスブック)
それでもシゲルスダチは倒れなかった。
12着でゴールしたあともまだ、走ろうとした。武士沢友治騎手が必死で手綱を引き、
<やっとスダチは止まってくれ、それからしばらくして馬運車に乗せられていきました>
断絶した師弟関係を結び合わせた「負けっぱなしの馬」
まったく勝てなくなった馬、シゲルスダチは調教師から見放されたこともある。行き場を失ったシゲルスダチを引き受けたのが伊藤正徳調教師だった。若き日の後藤浩輝騎手と激しくぶつかり合った<僕の師匠>である。「うちの馬で勝てると思った馬には、お前は乗せられない」
新人時代の後藤騎手は師匠の言葉にキレた。
「こんな厩舎やめてやる!」
伊藤調教師は有言実行。自分が管理する馬に自厩舎所属の後藤騎手を乗せないのだから、周囲も「?」だった。
先輩の横山典弘騎手は「後藤は騎手をやめるだろう」と思っていた。横山騎手が成長した後輩にかけた言葉。
「お前、あの頃、よく我慢していたな」
横山騎手ら関係者の目がある場でも伊藤調教師は後藤騎手を殴った。
プロになって1年目、後藤騎手は12勝したが、師匠の馬で勝ったのはたった一回きりだった。
「やめる」と決めても、いきなりフリーになった減量騎手(新人は鞍の軽くするハンデをもらっている)、通称「あんちゃん」に声をかけ、馬を回してくれる調教師はいない。後藤騎手は「減量」の二文字が消えるまで、3年間は我慢することに決めた。
「厩舎をやめます」
「ああ、わかった。やめろ」
伊藤調教師の反応は、なんともそっけないもので、
<俺の3年間は、我慢に我慢を重ねた3年間はなんだったんだよ!>(後藤浩輝『意外に大変。』東邦出版)
師弟の心が溶け合うことはなかった。後藤浩輝騎手が「人生を棒に振る」事件を起こすまでは。
「後藤が1年年下の吉田豊騎手を木刀で殴った!?」
私の最初の感想は「何をやってんだか?」「競馬ムラの住人はしみじみバカ」というものだったし、後藤騎手が再びターフに戻ってくることなど想像もしなかった。
「後藤にとって吉田豊は『職場の仲間』だろ?」
しかも、暴力沙汰の現場は ふたりが文字通り「同じ釜の飯を食った」若手騎手寮である。
「普通の会社なら絶対にクビ」
誰だってそう思うが……。
「うちの浩輝が迷惑をかけました」
後藤浩輝の師、伊藤正徳調教師はただ頭を下げた。
「これから自分が叩き直しますから、どうかクビにだけはしないでください」
理屈は一切なし。JRA理事、他の調教師、馬主など数十人の関係者を訪ねていき、ただただ頭を下げた。
<僕が復帰してかなり時間がたったあとのことである。藤沢和雄調教師が僕にふとこんな話をした。そのことを聞かせようとしたわけではなく、雑談のなかで藤沢先生が語ったことである。>
後藤浩輝はすぐさま伊藤正徳調教師に電話をかけた。
<僕はそんな話をまるで知らなかった>
師が弟子に語った言葉。
<「これからまた、二人で一緒に歩いていこう」>
<「俺が育てた馬が海外の大レースに挑戦するとき、お前がジョッキーとして乗って勝つ。それが俺の夢なんだ」>
夢は実現しなかったが、伊藤調教師は「行き場のない負けっぱなしの馬」シゲルスダチを引き受け、後藤浩輝の復帰を待った。
気がつくとハズレ馬券と一緒に「死」がポケットの中にある。
人は思い出したように「死」と語り合う。最初に出てくる言葉は……。
「なぜだ!?」
という怒鳴り声だけではないだろう。
わたしたちは
目をあいて多くの絶望を見てきた
だが、目をつむりさえすれば
いつでも
希望を見ることができた
希望
それは一頭の馬のかたちをかりて
百万人の胸のなかから生まれた
約束のことばだ
寺山修司