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現役のスター選手が猟銃を持って自宅に立てこもった!?
単なる「うわさ」だと思っていた。榎本喜八が「自宅籠城事件」を起こした。
引退後のうわさではない。1970年。榎本がまだクリーンアップを打っていたシーズン中の出来事。
榎本が猟銃を手に自宅の応接間に立てこもった。家から追い出された奥さんと二人の子ども、駆けつけた親族が出てくるよう説得したが、榎本は言葉を発した身内に照準を合わせ威嚇する。
「荒川さんを呼ぼう」
榎本が唯一、心を開くことができる大学時代からの先輩、荒川博。榎本に野球と合気道の極意を伝えた男が呼び出された。
「とにかく出てこいよ。話をしよう」と言う先輩に対する榎本の返答は、
「荒川さんでも入って来たら撃つ」
「何バカなこと言ってんだ。入るぞ」
玄関のドア開ける音。直後の「ズドーン」という銃声。
立ちつくす荒川の頭に壁土がバラバラと降りかかってきた。
これが球界をかけめぐった噂である。
「そんなわけない」と私は思っていた。数々の「奇行」で知られた榎本喜八だが、チームプレイである野球のベテラン選手がそんなことをするわけがない。
35年の歳月が流れ、榎本喜八をインタビューした松井浩はこう書いている。(『打撃の神髄榎本喜八伝』講談社)。
<この噂は、真実だった。>
たかが「ねん挫」によって「神の域」から引きずり降ろされた榎本喜八
世界の速度がほんの少しだがゆっくりとしたものになる。打席に入る。バットを構える。バットの重さにまかせ、すっと落ちていく所を定める。
盤石。体に近い球が来てもピクリとも動かない。榎本の打席こそ「リラックスした状態」の見本だった。
「臍下の一点」から、手を伝いバットに血が通う。
目は投手の目を見ている。後頭部はバットを見ている。
投手の手からボールが離れる瞬間、
「ストレートだ」
鮮明に見えているが、見えるのはそれだけではない。
榎本喜八の重心の中心「臍下の一点」は、タライに張った静かな水。そこの榎本喜八自身の姿が映る。鮮明に。くっきりと。
1963年夏。榎本喜八は「神の域」にいた。
しかし、それはたった11試合で消えた。
8月1日。ファーストゴロを捕りベースに駆け込んだとき、左足に激痛が走った。捻挫のため7試合を欠場。
それですべてが終わった。
止めることのできない涙とすべての窓を叩き割る破壊衝動
1966年。日米野球のベンチで座禅を組み、練習にも参加しなかったことについて榎本喜八はこう弁明した。「おなかが痛かったんです」
ファンは「精神統一だよ」とかばったが、直後の契約更改の席でも同じ「奇行」がくり返された。
椅子に座ったまま動かなくなった。声をかけても、お茶を替えても微動だにしない。瞑想をしているかのような状態で、榎本喜八はなんと7時間も居座り続けた。
「あれ、榎本がいないぞ」
試合前の練習を見るファンは、スター選手を目で追うものだが、榎本だけが消えている。
すぐ後ろで「ウォー」という奇声が聞こえた。
振り返ると、その榎本が客席に入り込んで吠えていた。
この行動の理由は今もって謎。
三振をすると、バットを逆に持って叩きつけへし折る。途中交代を告げられるとベンチ裏でコーラの瓶をバットで粉々に叩き壊す。自宅の窓をすべて叩き割る。
代打起用にそなえ、ベンチ裏で素振りをしていて涙が止まらなくなった。
あの榎本喜八が球界復帰を目指し走っているのを見た!
榎本喜八の最後の「奇行」は、こんなうわさ話となって球界をかけめぐった。「榎本が球界復帰を目指しているらしい」
1975年。40歳を目前にした榎本喜八が黒いタイツ姿でランニングしている姿が度々目撃された。
「東京球場の前で走る榎本を見た」
これが「現役復帰」のうわさとなったが、真相は違っていた。
「青田(昇)さんが、打撃コーチとしての起用を考えている」
現役時代の番記者からそんな話を聞き、榎本喜八は、若い選手と走り回れる体を作ろうとしていたのだ。
そのとき、「光の球場」と呼ばれた東京球場は解体されていた。
榎本がゲートをくぐると、工事関係者は誰もいなかった。制止する者もいない。
「光の球場」のグラウンドは、雑草に覆われていた。
榎本はバッターボックスのあった場所まで歩いた。
1960年代。野球は超常現象だった。
「フラミンゴ打法」で夢のようなホームランを量産した王貞治。
多くの打者が「光った」と証言した稲尾和久のスライダー。
背中を通り過ぎていく球を打つ練習に明け暮れた長嶋茂雄……。
榎本喜八と長嶋茂雄は同じ年に生まれ、背番号も同じ「3」だった。
これほどまでに対照的な4番打者を私は知らない。
榎本喜八が日本シリーズのゲスト解説者として放送席に座ったときのこと。
打席の長嶋が「自分とはまるで違う」はつらつとした姿をしているのを見て、めずらしく茶目っ気を出した。
「太陽が燃えていて、ボカンと破裂しそうです」
榎本がそう言い終えると、長嶋がスタンド上段に消えるホームランを放ったという。
日本球界の極北に光る「不思議な星」榎本喜八。
ひざまでの雑草に覆われた「光の球場」に立った感慨を榎本喜八は松井浩にこう告げた。(『打撃の神髄榎本喜八伝』講談社)
<兵どもが夢の跡だなあ>
【連載】黄金時代を支えた「超常スポーツ」の世界へようこそ!