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「氣」……それは観測機器には写らないが「物質」である?
こういう原稿を書くと、必ず出てくる反論がある。「氣などというものは存在しない」
全否定の理由は至ってシンプルだ。
「氣が計測されたことはない。この地上で一度たりとも」
反論する言葉は私にはない。いや、違うな。私もこの意見に賛成なのだ。
『「氣」の威力』(講談社+α文庫)の「まえがき」で著者・藤平光一はこう書いている。
<本書を読んでいただければおわかりのように、氣も現代機器にはまだ写らないが、実在の微小な物質であり、エネルギーなのです。>
シンプルな反論にシンプルに答えているように見えて、これでは反論になっていない。
「断定」であり、その根拠は何ひとつ書かれていない。「まえがき」なのに<本書を読んでいただけたらおわかりのように>と書くのも奇妙。
<氣とはいったい何か>という章には、ペンシルベニア大学の物理学教授、メール・メルビン博士との対話があるが・・・。
<「先生、音や光は数字で表せます。しかし、氣を数字で表せますか。また、表した人はいますか」>
合気道の達人と物理学者の対話
藤平はこう答える。<「できます。表した人もあります」
「それは誰ですか」
「私です」
私が笑顔でそう答えると、爆笑が起こった。>
それが「答え」なのか?笑いを取ってけむに巻いただけなのではないか?
<「数学はまず一を仮定します。一を仮定しなければ数学は成り立ちませんね」
「そのとおり」
「その一が問題です。大宇宙も一なら、人間も一、石ころも一です。一のなかにすべてが含まれるのです。いまここに一があるとします。それを二分の一にしても、そのもの自体は一です。これを無限に二分の一にしながら追っていったらゼロになりますか」
「ゼロになりません」
「ここにある一はどこまでさかのぼっても一、つまり無限小の一です。この無限に小なるものの、無限の集まりを総称して『氣』というのです」
参加者はみな私の答えに拍手を送ってくれた。確かに数学的説明には違いないというわけだ。だが、メルビン教授は「無限では計算に困る」と盛んに首をかしげていたので、ふたたび教室中に笑いが広がった。>
このくだりは明らかにおかしい。これは武道家と数学者の会話ではなく、武道家と物理学者の会話だからだ。「最小の物質」を追い求める物理学に「無限に小なるもの」などは理論的にもありえない。
物理学者が<盛んに首をかしげていた>・・・これが事実なら、「計算に困る」からではなく「お話にならない」からだろう。
藤平光一『「氣」の威力』は「トンデモ本」!?
もうひとつ、指摘しておくべき点がある。この会話が交わされたのは<カリフォルニア州立フラトン大学のサマースクール>とされている。そんな大学は存在しない。「カリフォルニア大学フラトン校」ならあるが。さらに私は「メール・メルビン教授」なる人物ををネットで探してみたが、「それらしき人」には出会えなかった。
「細かい間違い探しはよせ」といわれるかもしれない。だが、これが日本の大学で行われた授業ならどうだろう?疑問を持ったジャーナリストや研究者が、サマースクール参加者に取材をかけるはずだ。
しかし、場所がアメリカでは取材をする人は誰も出てこない。そんな取材のために航空券を取ってくれるメディアなどない。
疑問を抱きつつも読み進んでいき、私がひざを打ったのは、この一文に出くわしたときだ。
<そんなとき、ある人から、東京・音羽の護国寺で心身統一道を説いておられた中村天風先生を紹介していただき、ただちに先生の主宰する天風会に入門した。>
自己啓発本のベストセラー作家、中村天風。この方の著書は精査したことがあった。
結果をごく大雑把に言えばこうなる。
「中村天風のエピソードは『日本国内で起きたもの』と『海外で起きたもの』に大別できる。読者を大いに驚かせ感心させるエピソードは、ほぼすべて海外で起きたものだ」
それが本当なのかウソなのか、調べようがない。この構造は中村天風の「弟子」が書いた『「氣」の威力』にも引き継がれている。
7人の柔道家を瞬時に投げ飛ばし元・横綱を吊り出す「氣」のパワー?
たとえば、いきなり7人の柔道家(四段以上)と闘い、瞬時に7人を投げ飛ばした、という恐るべきエピソード。これは海外で起きたことである。
相手が名高い格闘家の場合も絶妙の迷彩が施されている。
<ハワイには、心身統一を学ぶことによって、横綱を倒した男さえいる。>
その男の名はラーリー・メイハウ(英語表記はどんな字?)。藤平がホノルル警察で合氣道を教えていたときの弟子で力士並みの体格をしていたという。
ラーリーは、プロレスラーとなっていた東富士と相撲を取り、元横綱を三度も土俵の外につり出した(!?)。
これもまた海外で起きたことなのだ。
しかも、『「氣」の威力』が世に出たとき、東富士は故人であり、調べようがない。
『「氣」の威力』を素直に読めば、「氣ってすごい!」となるが、疑いの目で読み返せば「?」マークがつく記述ばかりなのだが・・・。
石ころも人間も地球も太陽も大宇宙も……すべては「氣」でできている?
再び「氣とは何か?」という命題に戻ろう。「氣は物質」という断定を藤平は数学に置き換え、次には「人間とは何か?」という哲学的な問いを発する。
<人間はどうか。人間は最初母親の胎内で生命として宿るが、その前は父親の精子と母親の卵子の結合であり、さらにその前は、その前はとさぐっていったら、いったい、人間はなんであったのか。だいたい父親も母親も、二、三歳のころには精子、卵子などは発見できない。成長するに従って、体内にそれらを所有するのである。
成長する間に食べた米や大根、にんじんに精子や卵子の素が入っていたわけではもちろんない。>
ここまでくると読者は五里霧中だが・・・DNAのことを無視していませんか、藤平先生!
<つまり、人間も、何もないが、なにかあった状態から生まれてきたのである。>
<こう考えくると、人間の心も肉体も、一木一草も、太陽も星も地球も、天地にあるすべてのものが、この「何もないが、何かあった状態」、つまり無限に小なるものから生じてきたわけである。これらを総称して、私は「氣」というのである。
この氣のことを、神と呼ぼうと、仏と呼ぼうと、ご本尊と呼ぼうとかまわない。>
・・・神仏もまた物質?・・・思考がここまで来て、しみじみ思う。
これ、「氣は物質」と断定するから話がややこしくなっているだけだ。
「氣を出すことはリラックスするための手段であり方法である」
こう言いかえれば何もかもがすっきりするのである。かなり明確な根拠も出てくる。
世界のスーパースターである王貞治は「氣の威力」を体現し証言もしているのだから。
王の「フラミンゴ・スタイル」に世界の数億人が驚嘆し絶賛したんだからね。
「人を助け世の中を明るく豊かにするウソってのもあるよな」
そんな気分で読み進め、次の一文にぶち当たり、またしても心のうちでズッコケたのだが・・・。
<私は若い人には、ホラを吹くようにすすめている。>
・・・よくわからないが一応の結論。
ウソはときとして「奇跡」を起こす。
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