【第2回】アイルトン・セナの口から何度も出てきた言葉は「調和」だった|リアルホットスポーツ

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2015年7月22日
【第2回】アイルトン・セナの口から何度も出てきた言葉は「調和」だった

1988年モナコGP。セーフティーリードを奪い「楽勝だ」と数億人が思ったレース最終盤。アイルトン・セナの信じがたいミスでマシンがクラッシュ。生涯最大の失態の直後、包み隠さず語られた「神」「信仰」・・・そして、自らの「メンタル」とは?

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ayrtonsenna02
※写真はイメージです。

セナは「自分は不死身だ」と思っているから、あんな危険な走行ができる

「神がすべてをコントロールしている。良いものも悪いものもコントロールしている」
「神の判断や要求や目的は、神自身にしか理解できない」
                アイルトン・セナ
「神を見た」というアイルトン・セナの発言は、本人の想像をはるかに超える反響を生み出した。
最もエスカレートした解釈はこんな疑問から始まる。
「敬虔なクリスチャンが、数億人が注視しているコース上でチーム・メイトのマシンにぶつかっていったりするか?」

1990年。日本GP。
スタートからわずか8秒後。アラン・プロストとセナのマシンが接触し、両者ともにリタイア。セナはワールドチャンピオンの栄光を手に入れた。
ファンの落胆のなか、アクシデントの直前に「不敵に笑っていた」アイルトン・セナの写真が世界中に配信された。
そこから、「狂信者」アイルトン・セナの伝説が生まれた。
「アイルトン・セナは『神がついているから自分は死なない』と思っているのだろう。だから、先輩レーサーがそろって非難する危険な走りができるんだよ」
3度、F1世界チャンピオンに輝いたジャッキー・スチュワートに「危険なドライビング」を指摘されたことで、あの冷静なセナが激しくくってかかったことがあった。

「あなたのような経験豊富なチャンピオン・ドライバーの発言として驚いた」
「我々F1ドライバーは2位や3位になるためにレースをしているのではない」
「レーシング・ドライバーならば、わずかな隙を突くべきだ」
「僕には僕の思ったことしかできない」
このようなセナの言動は、再び「アンチ・セナ」ファンによってやり玉に挙げられた。
「敬虔なクリスチャンが、自ら争いごとを起こそうとするだろうか?」
ヨーロッパのジャーナリストが投げかける疑問に対し、セナは口を閉ざしてしまった。

なぜ、レーシング・ドライバーは「メンタル」を語らないのか?

気持ちはよくわかる・・・。
私がそう思うのは、F1ドライバーのほとんどが自らの「メンタル」について語りたがらない現実に触れてきたからだ。
バレーボールや水泳などの選手が行うような「メンタル・トレーニング」に取り組んだレーシング・ドライバーを私は知らない。
「時速400キロ近い異空間のなか、彼らは何を考え、感じ、動いているのか?」
数億人がそれを知りたがっているが、F1マシンのステアリングを握る人は誰も答えてくれない。
昨年、若干17歳でF1デビューしたマックス・フェルスタッペンは、しつこく問いかけてくる報道陣にこう吐き捨てた。
「メンタルがどれだけ強いか?そんな質問は下らないよ」

そんな世界で、いきなり「神」の発言を持ち出してしまったことをセナ自身も後悔していたに違いない。
実際、アイルトン・セナは「メンタル」に関して特別なことは何もやっていなかったようだ。
「神を見た」発言の直前にセナのトレーナーとなったジョセフ・レペレーはこう語っている。

「精神的なプレッシャーが高まりすぎている時、適度なハリ治療は精神の均衡を取り戻すのに大きな効果がある。体内にエネルギーを循環させるには理想的な方法だ。優れたマッサージは精神訓練よりも効果が高く、時間も節約できる。ドライバーはたいてい短気だということを忘れてはいけないよ」
(リオネル・フロワサール『アイルトン・セナ――真実と軌跡――』文春文庫)

アイルトン・セナは、13歳でカートレースを初めて闘ったときから「F1の世界チャンピオンになる」と心を決めていたといわれている。

「セナが最も私を魅了したのは、彼が100%をレースに捧げていたことです。実際に100%を捧げるのは簡単ではありません。私には家庭もあり、休養もあり、ゴルフやスキーに熱中したりもします。私の場合、98%くらいをレースに捧げているのだと思います。でも、セナにはレースが全てでした」
(追悼セレモニーでのアラン・プロスト)

そんな人間にわざわざ「メンタル・トレーニング」をやらせる理由がどこにあるだろうか? いや、それ以前に、アイルトン・セナに精神面の助言をしようとする「畏れ知らず」自体いないはずだ。
酒もタバコもやらず、趣味はラジコン飛行機だけ。ただ、アイルトン・セナの旅行カバンのなかには常に聖書があった。
神について、アイルトン・セナが重い口を開いたのは、日本人女性に対してだった。

「1988年のモナコGPのことは、みんな覚えていると思うけど、あのグランプリの後、僕は自分の信仰について率直に話した」
(今宮雅子「神について語ろう」『ナンバー』1991年6月20日号)

「誰かがマシンの底を蹴り、その衝撃で我に返った」という予選での神がかり的な速さ。しかし、その直後、アイルトン・セナは信じがたい失態を演じる。
首位を独走しながら67周目でクラッシュ。

「あのモナコでの試練に耐えられるよう、そして特にそれを理解できるように僕を助けてくれたのは、信仰だったんだ」
(今宮雅子「神について語ろう」『ナンバー』1991年6月20日号)

「神」≒「理解」?

「神は、人間としての、そしてプロフェッショナルとしての僕に影響を与えている」
(今宮雅子「神について語ろう」『ナンバー』1991年6月20日号)

その影響とは、「神の力」ではないのか?

「ここであえてはっきり言っておきたいのは、神は僕と一緒にフォーミュラ1のシートに座っているわけではない、神は神自身の力を僕に与えたのではないということだ。神は、その啓示を僕に与えたにすぎない。でももう一度言うけれど、僕は本当に他の人と違っているわけじゃない」
(今宮雅子「神について語ろう」『ナンバー』1991年6月20日号)

そう前置きして、アイルトン・セナは自身のリラクゼーションを初めて語り出す。

「ただ単純に神に話しかけることによって、神と対話するんだ。それに僕はしょっちゅう聖書を読んでいる。聖書の中には、僕という人間の問いに対する、多くの答えが含まれている」
(今宮雅子「神について語ろう」『ナンバー』1991年6月20日号)

信仰に助けられる、のではない。神からパワーをいただく、のでもない。
アイルトン・セナの口から何度も出てきた言葉は「調和」だった。

著者:中田 潤

フリーライター
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『平凡パンチ』専属ライターを経てフリー。スポーツを中心に『ナンバー』『ブルータス』『週刊現代』『別冊宝島』などで執筆。著書は『新庄のコトバ』『新庄くんはアホじゃない』など多数