※写真はイメージです。
サトウキビの搾りカスが地球を救う?
1976年6月26日。日本武道館。アントニオ猪木は、モハメド・アリと「格闘技世界一決定戦」を闘った。
猪木に残されたのは「世紀の凡戦」という酷評と9億円の借金だった。
しかし、猪木の借金苦はここから始まったのではない。
問題の会社「アントン・ハイセル」は、アリ戦の前に設立されていた。
リングの中だけにいれば大金が稼げる男は、何をやろうとしていたのか?
「サトウキビの搾りカスが世界を救う」
猪木はそんな妄想にとらわれていたのだ。
プロレスとはまったく関係ない!
自らの名声を利用した儲け話ではない、という点で「猪木個人の純粋な夢」だったのかもしれないけど……。
サトウキビから砂糖を作る→山のような搾りカスが出る→放置すると土質を悪化させる。
「環境問題を解決するぞ! だぁあああああああ!」
ブラジルには牛が1億頭以上いるが、肉が不足している。
国民にたんぱく源が充分に行き渡らない。
乾期の間、エサの草が枯れてしまい、牛の成長が遅いからである。
「食糧問題を解決するぞ! だぁあああああああ!」
サトウキビの搾りカスを牛に与えてみる→牛はサトウキビの繊維をつなぐ役割を持つリグニンという物質を消化できず下痢をしてしまう。
妻・倍賞美津子のママ友から紹介された男は、「リグニンだけを食べる細菌」の研究をしていた。
→サトウキビから砂糖を作る→砂糖を売って大儲け→搾りカスをバイオ技術で牛のエサに変える→ブラジルの牛の成長スピードが倍になる→牛を売って大儲け→牛の糞でサトウキビの肥料を作る→サトウキビがぐんぐん育つ→(行頭にもどる)。
「無駄のないサイクル! だぁあああああああ!」
わずかな出費でサイクルは動き出し、大金を生み続ける――これもまた一種の永久機関といえるだろう。
迷わず行けよ! 行けばわかるさ!
<私は興奮し、この事業に全面的に協力することを約束した。これが地獄の始まりとは露知らず。>(『猪木寛至自伝』新潮社)しかし、それは「妻のママ友への協力」と呼べるものではなかった。
「アントン・ハイセル」という自らのリングネームを盛り込んだ会社を日本とブラジルに設立。
「猪木が事業を始めた」という噂を聞きつけて、群がってきたのはどんな連中?
<あの人に会いなさい、彼に会った方がいい、といろんな人を紹介してくれるのだが、その度に金を取られる。工場を建てると言えば、建設屋に騙され、機械を設置するときには機械屋に毟られる。金目当ての連中が群れをなしてたかって来るような感じだった。>
「地上最強の男」は詐欺師の群れに囲まれたわけだが……いや、待て。ちょっと待て。
工場を建て機械を購入し、と猪木は書いているが、
「サトウキビのカスを牛が食べてくれるのか?」
という根本的な問題が解決していない。誰も「リグニンだけを食べる細菌」を発見していない。まだ実験段階。
<サンパウロから北に百九十キロ離れたレーメという村に、五万坪の牧場と工場が完成した。>
……うーん。また、猪木の自作の詩を引用したくなくなる。
「この道を行けばどうなるものか……」
<気づいたときにはもう何億という金が出ていってしまったのである。私はそれまでの貯蓄をすべて吐き出し、更に新日本プロレスから前借をしなければならなかった。>
モハメド・アリ、空手のウィリー・ウィリアムスなどと数々の異種格闘技戦を闘った猪木だが、ついに最強の敵が現われた。
「アントニオ猪木VS史上最悪のブラジルのインフレ」である。
1980年から94年までのブラジルのインフレ率はなんと21兆%!
猪木がブラジルで手にしたレアル紙幣は次から次へと紙くずと化した。ハイパーインフレの悪夢をごく単純化して言えば、
「昨日380円で食べることのできた牛丼が、目を覚ましてみると1000円になっている」
そんな時代のブラジルで猪木は大きな買い物を続けたのである。
新日本プロレスから前借りした100万円はブラジルに持って行っただけで20万円になっている。恥を忍んでスポンサーから借りた金は、ブラジルという名の「ブラックホール」に吸い込まれ消えてしまう。
紙幣は紙くずになり、牛はブラジル軍によって連れ去られた
地獄の底を匍匐前進し、「燃える闘魂」アントニオ猪木は、やっと丸々と太った牛たちに囲まれ、あの太陽のような笑みを浮かべたのだが……。「この道を行けばどうなるものか……」
<ところが、ようやく牛の出荷というときになって、信じられないことが起きた。あまりのインフレに追いつめられたブラジル政府が、物価の凍結令と食肉の強制出荷令を発令したのだ。私の牧場の牛は、軍隊によって一頭残らず持って行かれてしまった。>
人生の異種格闘技戦、アントニオ猪木惨敗。
<金と手間をかけて育てた牛が、ただ同然で消え、後には五億の借金だけが残った。>
アントニオ猪木の東京ドームでの引退興行は、イコール「猪木個人の新日本プロレスからの借金完済」だった。
花道に消えてゆく猪木の背中。古館伊知郎の実況が哀切を奏でる。
「物質に恵まれた世紀末。商業主義に踊る世紀末。情報が豊かでとても心が貧しい世の中。ひとりで闘うことを忘れかけた人々。もう我々は、闘魂に癒されながら時代の砂漠をさまよってはいられない。我々は今日をもって猪木から自立しなければいけない。闘魂のかけらを携えて、今度は我々が旅に出る番だ!」
猪木が振り返る。7万人の信者に向かって。
アントニオ猪木は満面の笑みを浮かべていた。
あの笑顔の意味はなんだったのか?
「感謝の念。もっと大きな勝負ができたんじゃないかという後悔の念。いろいろあるんだけど、ざまあみろ、って感じもあったな。うまく言えないんだけど、マジシャンが技を成功させたときの気分っていうのか」
アントニオ猪木のプロレスは「魔術的リアリズム」(南米で生まれた文学潮流)そのものだった。
しかし、リングの外では、魔術はことごとく失敗し、数百万人から「猪木はバカだ」と蔑まれ……。それでも、アントニオ猪木は闘い続けた。
だから、私は、あの笑顔の意味を勝手にこう解釈している。
「日本人よ! 金のために死ぬな!」
【連載】魔術とリアルが交錯する「プロレス怪人伝」