【第15回】「大悪党」であり「米軍の教官」でもあったディック・レインズがみせた「妙技」|リアルホットスポーツ

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2015年9月11日
【第15回】「大悪党」であり「米軍の教官」でもあったディック・レインズがみせた「妙技」

「ディック・リールは本当にいる。私は実際に闘ってノシたんだから」……プロレスラー「マス・トーゴー」の武勇伝は「全部ウソ」とする言説に大山倍達は激怒した。資料がまったく残っていないマス・トーゴーVSディック・レインズ戦の真実とは?

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グレート東郷とディック・レインズの「悪党ナンバーワン決定戦」

この現代の世の中ほど、われわれの周辺に「真実」のものを見出すことの至難な時代はない。
情報・宣伝万能の世の中であり、それがまた実体より誇張されて、とかく羊頭をかかげて狗肉を売りまくる。人心もまた、それにつれてバカ正直では生きてゆけず自衛本能めいてウソつきになる。
梶原一騎の序文 『大山倍達 ケンカ空手 世界に勝つ』スポーツニッポン新聞社

『大山倍達正伝』を書いた小島一志は、大山の妻への手紙、新聞社への手紙などをもとに大山倍達のアメリカでの足跡を追っていった。
そこに「プロレス考古学者」小泉悦次が調べ上げたグレート東郷とディック・レインズの試合記録を重ね合わせると……ひとつの日付が浮かび上がってきた。
1952年5月3日。

この時期、大山倍達とディック・レインズは「アメリカ中部、北の果ての大都市」ミネアポリスにいた。
ディック・レインズは週1回のペースでNWA系の定期興行に出場していた。
同年4月22日。ミネアポリス。グレート東郷は、アマレス五輪代表で売り出し中だったバーン・ガニアと闘って負けている。パンフレットには<Togo Trains with Family><with his two brothers from Japan>。大山倍達は試合会場にいた。
5月7日。ディック・レインズは定期戦とは別のワンマッチをミネアポリス郊外の町、ロチェスターで闘った。
グレート東郷との初対決である。

この試合にキャッチコピーをつけるなら「悪党ナンバーワン決定戦」といったところか?   
フレッド・ブラッシーとの大流血戦でテレビの前にいた老人数名をショック死させたあとも、グレート東郷はこう言い放った。
「血はリングに咲くバラの花だ」
リングに土下座し許しを請うかと思えば、相手の目に塩を投げ、股間を蹴り上げ、うすら笑いを浮かべる。東郷の不意打ちは多くの米国人に真珠湾攻撃を思い出させた。

対するレインズのニックネームは「ダーティー」ディック。窮地に陥るとレフェリーに襲いかかる、という悪役の攻撃パターンを初めてやったのがレインズだった。レフェリーの服をズダズダに引き裂き、KOし、無法地帯となったリングで悪の限りをつくした。試合結果のほとんどが反則負け。

悪党二人の初対決。元プロボクシングの世界チャンピオン、スーパースターのジャック・デンプシーがレフェリーとして招かれていることから、この試合が「ビッグマッチ」だったことは確かである。
大山はジャック・デンプシーとの出会いを著書に記し、ツーショット写真を掲載している(日付は不明)。

マス・トーゴーは大一番の前哨戦で「ダーティー」ディックと闘った?

大山倍達の名を世間に知らしめたのが『週刊サンケイ』(1953年1月18日号)に掲載された「空手、アメリカ大陸武者修行 大山四段土産話」という4ページの記事だった。
そこで大山は「1952年5月3日にプロレスラーのディック・リールと闘った」と日付まではっきりと語っている(「ディック・リール」というキャプションがつけられた写真はルー・ニューマンだったが)。

これらの傍証から小泉悦次は次の仮設を組み立てた。
<東郷はディック・レインズと戦う前に、大山さんに小手調べをさせたと私は判断しています。つまり、五月七日以前、四月二九日と五月六日の中間あたりに大山さんがレインズと戦っている可能性は非常に高いと言えるでしょう。>(『大山倍達正伝』)

東郷との大一番を盛り上げるための前哨戦である。
であるなら、「マス・トーゴー」(大山倍達)がレインズに勝つことは絶対に許されない。大一番の二日前に試合経験ゼロの素人にKOされた、なんてことになったら「ダーティー」ディックの商品価値はゼロになってしまうからだ。
やっぱり、全部ウソ?

ここからは推論である。
試合結果は、マス・トーゴーの反則負けだった。
生前の大山倍達は繰り返し語っている。
「目突き、金的蹴り、中段突きでディック・リールをノシた」
トドメのパンチを含め、すべてプロレスでは禁止された技なのだ。
大山はディックを倒し、反則負けを宣告された?

私はディック・レインズの試合を輸入ビデオで見た記憶があるが、水道橋駅前にあった格闘技専門のレンタルビデオ屋はとっくの昔に潰れている。
私はネットを漂流し、慣れない英語名を打ち込み……。

ディック・レインズの動画はあった!
たった一本だけだが、「ダーティー」ディックの試合を記録したニュース映画が残っていた。

「ジョバー(スターを光らせる役割)」レインズが見せたロープ際の「妙技」

対戦相手はディーン・ダットン。空中殺法でならしたベビーフェイスである。音声なし。日付は1941年。

またしても舌を巻いた。
今から74年も前。
第二次大戦中の試合なのに、まるで1990年代の新日本プロレスを見ているかのようだった。
このときすでに、現在のプロレスの要素が絶妙にブレンドされている。

ディック・レインズの身長、体重は不明(調べたけど、わからないんだな、これが)。
ディーン・ダットンの全盛期の体重は100キロ前後。
ディックは一回り大きく、組み合うと押しまくった。ヘッドロック。脳天へのパンチ。いきなりの反則攻撃。逃れようともがくダットンに下から強烈なエルボーが炸裂。
その後は締め技の応酬となるが、レインズが首を突き出して挑発すると、試合は一転、殴り合いとなる。リング下に蹴落とされたデットンはトップロープをひとっ飛びして素早くリングに戻る。

ロープに振られたレインズが見せたムーブはまさに「妙技」である。
ロープ最上段と2段目の間にきれいに挟まる。手でロープを掴んでいるわけではない。絶妙のバランスで空中に静止。
強烈なドロップキックを浴びてリング下に落ちるレインズ。
このやられ技を短い試合で二度やっているのだから、これもレインズの「発明品」なのだろう。
張り手、グーパンチ、エルボーの応酬。スピード満点だし、すべてが痛そう。
レフェリーの死角をついたレインズの首絞め。「レインズは関節技を持っていない」と書かれた資料もあったが、この試合でレインズは見事な股裂きを披露している。
反則技に怒ったデットンのパンチ、エルボーは「もしやシュート?」と思わせる恐ろしさで、レインズは完全に崩れ落ちる。
クライマックス。デットンのトペ・スイシーダのシーンはなぜかカットされている。「子どもが真似をしたら死ぬ」という映画会社の判断か?

11年後。42歳になったレインズが30歳の大山倍達と闘っているシーンを想像してみる。
体重差40キロはあっただろう。ディック・レインズはアマレスもうまい。
この時代のプロレスは「いつシュート(真剣勝負)になっても不思議ではない」緊張感に満ちている。
1943年。レインズは米軍に招集されている。
太平洋戦争が激化するなか、彼に与えられた使命は「素手での格闘術」を米兵に教えることだった。
大山倍達はなぜ、一試合だけプロレスラーと闘ったのか?
【連載】魔術とリアルが交錯する「プロレス怪人伝」

著者:中田 潤

フリーライター
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『平凡パンチ』専属ライターを経てフリー。スポーツを中心に『ナンバー』『ブルータス』『週刊現代』『別冊宝島』などで執筆。著書は『新庄のコトバ』『新庄くんはアホじゃない』など多数