【第17回】最大の観客の前で試合をした日本人レスラーは誰だ!?|リアルホットスポーツ

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2015年10月7日
【第17回】最大の観客の前で試合をした日本人レスラーは誰だ!?

WWF「レッスルマニア」に対抗すべく、AWAの帝王、バーン・ガニアは「スーパークラッシュ」を開催。「スポーツとしてのプロレス」を守る最後の大勝負には、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎が助っ人として駆けつけたが……リングにいた日本人は、全日本プロレスのトップ3人だけではなかった。

フリーライター
  
pro-wrestling17

ビンス・マクマホンごときに業界を仕切られてたまるか!

1985年3月31日。第一回「レッスルマニア」が、ニューヨーク、マディソンスクエア・ガーデンで開催された。
実況アナは、のちにミネソタ州知事となるジェシー・ベンチュラ。
「今、レッスルマニアが歴史を作っている」
この日は、プロレスファンが「映画館に行く日」でもあった。全米各地の劇場では、15ドルを支払ってショーを見る客が行列を作り、ビンス・マクマホンは一夜で400万ドルを手にしたといわれている。

その頃、土俵際からの一発大逆転を狙う男がいた。
「俺は負けない。白旗を掲げるのなんてまっぴらだ。ビンスの野郎が業界を仕切るようになることをなんとしても阻止しなければならない」
AWAの帝王、元アマレス五輪代表のバーン・ガニアである。
ガニアは、「AWAを売ってくれませんか?」というビンスの誘いを何度もはねつけている。

ガニアの最後の抵抗は、「スポーツとしてのプロレス」を死守する闘いでもあった。
ガニアはNWAを牽引していた「天敵」ジム・クロケット(プロモーター)と手を組み「レスリングUSA」を結成。レッスルマニアの半年後に「スーパークラッシュ」を開催した。シカゴの野球場、コミスキーパークで行われた一大イベントだが……。

私はまったく覚えていない。この大会について語る人に出会ったことがない。

リック・マーテルが「世界最強の男」!?

でもね、この大会に参集したプロレスラーこそ、「長いものには巻かれない」「金で転ばない」反骨の男たちといえるわけで……改めて調べてみた。

メインエベントは、リック・マーテルVSスタン・ハンセンのAWA世界ヘビー級選手権。
スタン・ハンセンは、WWFのリングで「絶対王者」ブルーノ・サンマルチノの首を折り、ニューヨークから追放された「裏街道最強の男」。まさにうってつけのマッチメイクだが……。

当時のAWA王者がリック・マーテル?
解せない。リック・マーテルはビンス・マクマホンに「AWAの倍のギャラ」を提示され、ホイホイとニューヨークに行った「裏切り者」ではなかったのか?
キーパーソンは、レッスルマニアの主役、プロレス史上最高のスーパースターとなったハルク・ホーガンである。
リック・マーテルのAWA戴冠こそ、太平洋を股にかけたバーン・ガニアの深謀遠慮だったのだ。

今となっては「不思議な歴史」そのものだが、ハルク・ホーガンこそ、実はAWA王者になるべき男だった。
ビンスとの確執により、ホーガンがWWFを去ったのが1981年8月。ホーガンがシルベスター・スタローンの敵役「サンダー・リップス」として出演した映画『ロッキー3』が公開されたのが1982年5月。プロレスの枠を超え、全米のスターとなったホーガンはAWAのリングで吠え続けた。
「チャンピオンのニック・ボックウィンクルと対戦させろ!」

プロレス王者の条件は「シュート(真剣勝負)になっても無敵」

バーン・ガニアは拒否した。
「関節技ができないやつにチャンピオンの資格はない」
それがバーン・ガニアのプロレスだった。プロレスはスポーツであり、王者の条件は「シュート(真剣勝負)になっても無敵」でなければならない。
ニックとホーガンのタイトルマッチは、結局、一度も組まれなかった。

1984年2月23日。太平洋の向こう、極東の島国で事件が起きる。
世界的にはまったく無名のジャンボ鶴田が「絶対王者」ニック・ボックウィンクルを破り、AWA世界チャンピオンとなったのである。
「あれにはマジ、驚いたよ」(リック・マーテル)
「WWFで楽して稼ごう」と決めていたマーテルだったが……ここでバーン・ガニアが悪魔のささやき。
「リック、チャンピオンにしてやるからAWAに戻ってこないか?」
この誘いにもリック・マーテルはホイホイと乗った。節操なし。

1984年5月13日。リックはジャンボ鶴田を破りAWAチャンピオンとなった。我らがジャンボの栄光は3カ月ももたずに消えてしまった。
バーン・ガニア、一世一代の大勝負となった「スーパークラッシュ」に、ジャイアント馬場は、ジャンボ鶴田、天龍源一郎を引き連れて参戦。「対WWF戦争」に助っ人として駆けつけた。
「さすが馬場さん、男だね」
そう書きたいところだが……。その裏には「ハルク・ホーガンを引きずり降ろせ!」というアングル(企み)が存在したのだ。
ハルク・ホーガンは、ジャンボ鶴田より弱い(ここにはジャイアント馬場の「対アントニオ猪木」戦略も当然ある)。
鶴田なんぞ、リック・マーテルの手にかかればひとたまりもない。
「スーパークラッシュ」でリック・マーテルはスタン・ハンセンと引き分け、王座を守った。
でもなあ、こんなに複雑怪奇なアングルを読み解いて「マーテル、すげえ!」と言うマニアが何人いただろうか?
いずれにせよ、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎という全日本プロレスのトップ3人の前座ワンマッチのための渡米は異例中の異例だったが……。
この日、コミスキーパークにはもうひとりの日本人レスラーがいた。

「世界最強の小人」リトルトーキョー

第5試合に登場したNWA「ミゼット」チャンピオン、リトルトーキョーである。
リトルトーキョーってプロレスラー、知ってます?
実は私もまったく知らなかった。「スーパークラッシュ」の試合表からネットをたぐっていって、彼の試合を初めて見た。

試合の映像記録はある。しかし、「リトルトーキョー プロレスラー」でグーグル検索しても本人と関係のないサイトしかヒットしない。日本語での検索結果ゼロ。
日本人小人レスラーのチャンピオンは、リトル・フランキーただひとりだと思っていた。
1994年11月20日。東京ドーム。女子プロレスのオールスター戦。
「不世出の天才ミゼットレスラー! 小さな巨人! WWWA世界ミゼットチャンピオン」(今井良晴リングアナのコール)
4万2500人(主催者発表)が見つめる花道を台車に乗って登場した「ザ・グレート・リトル・ムタ」こと、リトル・フランキー。
あの瞬間こそ、小人プロレスの絶頂だと私は考えていた。
しかし、上には上がいる。
「スーパークラッシュ」から1年半後、リトルトーキョーは、レッスルマニアIIIのリングから9万人の観客を見上げていた。
【連載】魔術とリアルが交錯する「プロレス怪人伝」

著者:中田 潤

フリーライター
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『平凡パンチ』専属ライターを経てフリー。スポーツを中心に『ナンバー』『ブルータス』『週刊現代』『別冊宝島』などで執筆。著書は『新庄のコトバ』『新庄くんはアホじゃない』など多数